ぼくのなつやすみ2 海の冒険篇 PlayStation 2 the Best
誰もが持っている、あの懐かしい夏休みの感じを思い出させてくれる一品です。
すべてのイベントを体験しようとがんばっちゃうと、ただただ作られたゲームの進行を追うだけになって疲れてしまいますので、自分のペースで一日一日を過ごすのがいいでしょう。
「今日は一日釣りをしてウダウダしてよっと」とか、そのぐらいの力加減でプレイするのがおすすめ。
で、最後に「ああ、あれも見れなかったし、これもやらずに終わっちゃったなあ」とか言いながら、ちょっと哀しいような寂しいような大人になったような気分でエンディングを迎えても、それこそが夏休みだなあって思えますよ。
やりたいことがいっぱいあるけど、そんなにできなかったなあ・・・でも後になったら、あの時、すごい楽しかったなあ。!あん!なことって二度とないなあ・・・そんな夏休み感覚が味わえるのがこのゲームなんですから。
毎日が夏休み [VHS]
再婚同士の両親に母親の連れ子、という家族構成。
どこか寄せ集めで、どこかよそよそしい。
そんな彼らは名づけて「スクラップ家族」。
そんなところからお話が始まり、エリートコースをドロップアウトした義理の父親と登校拒否の義理の娘が、なんでも屋を始めます。
お互いが親子としての交流を見出すまでの物語、家族としてのつながりを確立するまでのお話、
そんな風に言うこともできます。
――じゃあ感動系のお話なの?泣ける映画なの?
それがまた違うのです。
全編にわたってちょっとしたユーモアやコメディがちりばめられていて、
2時間の間のほとんどをニヤニヤと笑いながら観ることだってできます。
あるいはこの映画の持つ別の側面、現代日本の社会の問題について考えながら観る!こともできます。
この映画は、観る人に何も強制しません。
笑いたい人は笑うでしょう。泣きたい人は泣くでしょうし、現代社会について考え込みたい人はきっと考える。
もちろん、その全部をいっぺんに味わうことだってできますよ。
それを可能にする深さがこの映画にはあります。
日本映画における、決定的なる良心的傑作。
映画ファンなら観なきゃ損。
小学生のアイデア工作―リサイクル・ネイチャー素材で作る
出来映えの良いものが載っているが、少し難を言うと工作するときにマジックや塗料を塗る作品が多いので、リサイクルの良さがあるのかなといった感じを受けた。制作費が安く、良い製品が出来ると親にも負担が少ないのではと思ったが、作品字体は立派なものが多かった。
ぼくのなつやすみ2 海の冒険篇 PlayStation 2 the Best
私が、このゲームをしたのは、小学6年生の夏休みでした。
他のゲームとは違い、何をしてても良い。というのは、
とても面白いものでした。ずーと、ボーとしていたり、
王冠を集めては海にもぐり。初めは、あの画面の綺麗さに
今日を惹かれて買ったのですが、登場キャラクターと
接しているうちに、自分自身が、僕君になった気分でした。
どんな嫌なことがあっても、このゲームをやっているだけで
楽になれました。今は、騙し、騙されだけど、このゲームを
やっているだけで、純粋な気持ちになれました。
もう、私の手元にはないので、また買って春休みに、
もう一度やろうと思います。それほど、良いゲームという事です。
つるばらつるばら (白泉社文庫)
この時期、創作力が爆発されていますね。
『秋日子かく語りき』では、
「秋日子かく語りき」「ロングロングケーキ」「庭はみどり川はブルー」
「水の中のティッシュペーパー」、
『つるばらつるばら』では、
「夏の夜の獏」「山羊の羊の駱駝の」「つるばら つるばら」
ですか。
同時期に『毎日が夏休み』もありましたね(映画化もされましたか)。
ややオカルトっぽいところも入っていますが、それはSF上の技法と解釈
しておきましょう。とくに「ロングロングケーキ」で、繰り広げられる
奇譚が、登場人物の妄想であるかどうか、決定不能だというオチになって
いるわけですが、その構成は他についてもいえるものとなっています。
「秋日子かく」「庭はみどり」は往生回帰もので、「四月怪談」系の作品ですね。
「山羊の」は、「雛菊物語」系のもので、私はこのアパシー系列の作品が
もっとも大島的だと勝手に思っています。
大島節というのか、それは健在のわけですが、時代のせいか、やや
全体的に「希望のなさ」「薄幸感」がより強くただよっているように
私などは解釈してしまうのですが、錯覚でしょうか。
ところで「山羊の羊の駱駝の」に出てくる、「週刊ピーマン」編集部の
嫌なやつの記者(大人社会にありがちな)の名前は、K正和氏を連想して
しまうのですが、これは私の誤解なのでしょうか?
あと、付け加えたいのは、「つるばらつるばら」の主人公のお父さんが
大島作品では珍しく、父親的であることで(存在感のある父)、これは
どのように解釈するべきなのでしょうか。とくに強調するべきことでも
ありませんか。